ふくちゃんカフェ 本店

愛なる命の光 満ち溢れるbubbles
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    10月 13th, 2009ふくちゃんシアワセのありか

    今日、約2時間半くらい歩いた。

    発想のイメージを膨らませるために、歩いた。
    ジョギングでは20分たったところから、
    有酸素運動になるようだ。
    頭を活発に働かせるためには、
    約1時間くらい歩かないと、
    動いてくれない感じがする。

    今日も、そうだった。
    歩くことは、発想の原点。
    ノーベル賞を取った人々は、
    よく歩いているそうな。
    これを、真似してみた。

     

    ふくちゃん

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    10月 10th, 2009ふくちゃんシアワセのありか

    僕は常に何かを考えています。

    僕の頭は、常に思考している。

    その「何か」とは、これからの未来の事柄が多い。
    (#もしくは、過去のことも考えているかな)

     

    今後の予定だったり、

    今後の支払のことだったり、

    夢の実現方法を探る思考だったり、

    明日の朝の起きる時間を気にしたり。。。。

     

    何をしていても、先(未来)のことを考えています。
    ご飯を食べていても、歩いていても、そう。

     

    せっかくのおいしいご飯を食べていても、
    頭は他のこと(未来のこと)を考えている。

    たちが悪いのは、僕は人と話をしていても、
    心ここにあらずで、先のことを考えている。

     

    これでは、今を生きてないということに気がつきました。

    今を生きていないと、考えている未来に時間が進んでも
    相変わらず、そのまた未来のことを考えるという不幸な連続です。

    「今を生きる」とは、
    目の前の相手(対象物)に集中することです。

    ご飯を食べていたら、ご飯に対して集中する。
    歩いていたら、歩くことや、自然の変化に集中する。
    人と話をしていたら、その人との会話に集中する。

    これ↑を心がけるようになりました。

    そして、思いました。
    「今」を生きないで、「未来」のことを考えているのって、
    ある意味、生活の「慣れ」から来ているのだと思う。

    ある程度物事の対処に慣れてしまっているから、
    心が「今」に無くても、物事を進めることが出来ていた。

    頭の中は、未来のことを考え、
    目の前の「今」に対しては、身体の反射神経で対応していました。

     

    ある意味、僕は器用になってしまったということです。

     

    赤ちゃんは、この世に生まれ、目の前の出来事に慣れていません。
    なので、目の前の今に対して新鮮で、一生懸命です。

    そして、目の前のことに喜怒哀楽をすべて注ぎます。
    赤ちゃんみたいに、言わば「不器用」になれば、
    「今」を生きれるかもしれないと僕は思いました。

    具体的には、僕は右利きですが、
    ご飯を左手で食べるようにしました。

    左手で箸を持って食べることをやってみました。

    そうしたら、一生懸命ご飯をつかむことで精一杯。
    一回一回ご飯を口に運び、今に集中してご飯が食べられました。

     
    これは、一つの発見です。
    「不器用」こそ、今を生きる術なんですね。
    「器用」が良いことだと思い込んでましたが、
    「不器用」こそ、今を生きて、よりその時その時のシアワセを感じ、
    生きる方法なんです。

    「シアワセのありか」はここにありました。

    不器用こそ、シアワセなことなんです。

     

     ふくちゃん

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    9月 18th, 2009ふくちゃんシアワセのありか

    人にはオーラというか、存在感というか、

    その場の存在にエネルギーを持っている。

    たとえば、複数の人の集団の中で、
    場を仕切っている人がいる。

    それは会社の役職とか、立場ではなく、
    その場の人としての存在の大きさで、
    何かとその場の中心にいる人がいる。

    会話にその人が入っていなくても、
    無言の力で、いい意味でも悪い意味でも場を仕切る人もいる。

    それもどれも、オーラと言ったり、
    存在感と言ったりするね。
    そして、人はそのオーラを自然と感じている。
    人は、人のオーラをドラゴンボールのスカウターのように
    感じ自然と力関係を計っている。

     
    たとえば、ある人(Aさん)がその場から離れ、
    帰宅するとします。
    Aさんは、みんなにさようならとお別れの挨拶をするが、
    実は、みんなにではなく、その場を仕切っているZさんにしている。
    そして、存在感の無い、NさんはAさんにとって眼中にないので、
    挨拶がNさんに聞こえたのかは関係ない。

    あくまでも、Zさんに挨拶をしているのだ。

    これって、たとえ話だけど、多くの人は、これに当てはなるんじゃないのかな。
    あなたも、力関係を見て、挨拶してませんか?

    僕は、これが大嫌い。
    大嫌いというのは、僕自体がその力関係に流され、Zさんに挨拶しちゃっているからね。

    Nさんにも、立場の弱いMさんにも挨拶しようよ、僕。

     

    僕は今、あえて組織に属さない、個人自営業です。
    だからこそ、人のオーラは感じつつも、それで不平等に人と接するのは
    できるだけ避けたいと思っている。

    どんな人も、同じ、平等に。
    そうありたい。

     

    ふくちゃん

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